【白鳳地震】日本書紀最古の巨大地震って、どんな地震?

日本はプレートの境目にある関係から、誕生時より地震が多い地域です。発掘調査によって何度も大きな地震が日本列島を襲っていることは確認できていますが、古文書に発生日時までしっかり記載されている最古の地震は684年の白鳳地震。四国から中部の沿岸部に広く津波の痕跡が残っていることから、一説では三連動型の南海トラフ地震だったのではないかと言われている地震です。今回はこの地震についてご紹介しましょう。

※個人的な見解です。ご了承ください。

地震発生

天武天皇の時代になって13年、西暦684年11月29日の夜。
南海トラフを震源とするM8クラスの地震が発生。

天武天皇十三年冬十月
壬辰。逮于人定、大地震。挙国男女叺唱、不知東西。則山崩河涌。諸国郡官舍及百姓倉屋。寺塔。神社。破壌之類、不可勝数。由是人民及六畜多死傷之。時伊予湯泉没而不出。土左国田苑五十余万頃。没為海。古老曰。若是地動未曾有也。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E9%B3%B3%E5%9C%B0%E9%9C%87

ざっくり訳すと、

人定の頃に大地震が発生した。
国中の人たちが悲鳴を上げて逃げ惑った。山が崩れ液状化現象が起こり、あらゆる地域の役人、住民の家屋や被害を受け、神社仏閣も倒壊。家畜も数えきれないくらい死んでしまった。愛媛の道後温泉は埋もれて湯が出なくなり、高知では12㎢あまりの田んぼが海に沈んだ。老婆が「こんなことは生まれて初めてだ」と言った。

人定の頃というのは、人が静かになる頃、という意味なので、地震が発生したのは20時~22時あたりと推測。日本書紀には愛媛、高知など西日本の被害について触れられていますが、発掘調査によって三重・愛知・静岡で7世紀後半に津波の襲来・液状化の発生が確認されています。このことから、白鳳地震は連動型の南海トラフ地震だったのではないか、という説も。
具体的な数字は残っていないものの、地震と津波で大きな被害が出たことは間違いなく、特に高知での被害は甚大でした。そのため、高知の各地にこの地震の津波被害の言い伝えが残っています。1300年以上昔の出来事なので、いろいろ誇張されてはいるようですが、それでも言い伝えが残っているあたりがすごいですね。

さて、この地震が発生したのは天武天皇の時代。
どんな時代だったのでしょうか?

天武天皇は、今の日本の形を作った人

天武天皇は、大化の改新を行った中大兄皇子こと天智天皇の弟であり、天智の息子・大友皇子と皇位を巡って大争い(壬申の乱)をした人。妻は鸕野讃良皇女、のちの持統天皇。
天智と天武はごっちゃになりやすいので、「サトシが兄貴」と覚えましょう♪ タケシが弟。…いや、覚え方はどうでもいいんですけど。

大化の改新以前は豪族が力を持ち、最終的には豪族の頭たる大王一族の立場さえ危うくなってきたことから、大化の改新後は遷都を行い、身分制度を刷新、法律を整備するなど、天皇中心の政治体制作りを進めました。天武天皇はさらに天皇の権威を高めるプロジェクトを推進。

  • 飛鳥浄御原令の制定 日本最初の律令
  • 八色の姓の制定 氏姓制度の再編
  • 「古事記」「日本書紀」の編纂指示
  • 藤原京の造都

こうして見ると、「古いものは全否定!」「先進国のシステムを導入して、先進国に追いつけ追い越せ!」という、日本の近代化に匹敵する大改革を行っていたんですね。
天武天皇は中国をお手本に改革を進めて行きますが、そもそも自分を唐の皇帝になぞらえていたフシがあります。
ただ、大プロジェクトが多かったため、天武天皇の存命中にはほとんどが完成しませんでした。

さて、中国には天命思想という考えがあります。
「天下を取る人は天に命を受けた徳が高い人である。世が乱れる時は、統治者が不徳であり、天命を失ったから」という考え。
この考えが、遣隋使・遣唐使を通して日本にも伝わりました。
天武天皇は即位後、外国の使者に対し「新しく天下を取った」と伝えているところから、自分のことを天智の後継者というより新王朝の創始者と考えていたようです。
実際、天武天皇は強いリーダーシップとカリスマ性を持った人物でした。信念のもとに改革をガンガン進めていくあたり、ワンマンぶりが垣間見えますね。

そんな、天武時代なのですが…
実は、天変地異、特に地震が多い時代でもありました。

突出して天変地異が多い天武時代

天命は我にありと天皇親政の政治体制を作っていた天武天皇ですが、その時代は前後に比べびっくりするくらい天変地異が多かったのです。世の人々は、天武の治世をどのように思っていたのでしょうね。

推古1回、舒明0回、皇極3回、天智1回、天武21回、持統1回、文武2回、元明4回、元正7回、聖武5回(740年まで)となります。天武天皇時代は地震の表記数が格段に多いのです。在位期間を加味し、年間発生件数で計算すればもっと多い確率で地震が頻発していた時代

http://www7a.biglobe.ne.jp/~kamiya1/mypage-d.htm

天武天皇は歴史書の編纂を命じているくらいですので、前の時代に比べ、丁寧に出来事を記録するようになった、というのも関係あるでしょうが、それにしても…。
実は地震だけではなく、2度、大きな彗星が観測されています。白鳳地震が発生する684年の夏には、ハレー彗星が出現。

科学技術が今ほど発達していない時代、夜空に突然現れる長い尾を引いた彗星は、不吉な前兆と囁かれていました。科学技術が発達してきた20世紀に入っても、1910年のハレー彗星接近時には世界中でパニックが発生したのはご存じの通り。「ドラえもん」33巻に「ハリーのしっぽ」という、1910年のハレー彗星騒動のエピソードが載っています。アニメでも取り上げられたエピソードなので、ご存知の人も多いのでは?

白鳳地震から2年後の686年、天武天皇は病気にかかりこの世を去ります。

天武天皇亡き後は、天武の息子・草壁皇子が後を継ぐはずでしたが、即位前に病没。草壁皇子の息子は7歳とまだ幼いため、天武天皇の皇后だった鸕野讃良が、7歳の孫が天皇になるまでの中継ぎとして天皇に即位します。持統天皇です。
持統天皇は天武天皇のプロジェクトを忠実に引き継ぎ、次々と完成させていきます。その中に、唐の長安に倣って作らせた新王朝の都・藤原京もありました。持統天皇は、この藤原京に引っ越します。夫の遺志を継いだ持統天皇は、感無量だったのではないでしょうか。

わずか16年で役目を終えた藤原京

持統天皇はもともと中継ぎだったため、孫・軽皇子が15歳になったところで譲位。年若い天皇であるため、しばらくは上皇として孫を見守っていましたが、703年に亡くなります。
そして軽皇子こと文武天皇も25歳の若さでこの世を去り、文武天皇の息子がまだ幼かったため、文武天皇の母が中継ぎの元明天皇として即位。
天武天皇以前は、大王の代替わりごとに遷都を行っていましたが、藤原京は、持統・文武・元明が住みました。が、元明天皇の時代に、再び遷都の指示が出されます。

理由は、

  • 藤原京は遣唐使の資料と伝え聞いた話だけで作ったので、長安とは作りが違っていた
  • 藤原京は、交通の便が良くなかった
  • 排水設備の不備や、そのほかにもいろいろ問題が見つかった
  • 疫病や飢饉が発生して国が疲弊した

などがあるようです。

元明天皇自身は「まあ、問題はあるけど、遷都は大変だから、おいおいでいいんじゃないの?」と思っていたフシがあります。そうは許さなかったのが壬申の乱時代の功臣に代わり台頭してきた、頭のキレる男・藤原不比等。天皇が親政を行うなら、外戚になって権力を手に入れようと画策した彼は、あれこれ理由をつけて元明天皇に遷都の詔を出させ、その2年後に平城京に引っ越します。大急ぎで引っ越したので、平城京はほとんど何もない(内裏と大極殿、官舎程度)状態でした。

実際の理由がどうだったのかはわかりませんが、何はともあれ藤原京はわずか16年で歴史の幕を閉じ、平城京遷都の翌年に焼失してしまいました。
ここで新王朝の歴史を紡いでいくという、天武・持統夫婦の夢は16年で終わってしまったのです。ただ、天武天皇の血筋は現代まで続いており、歴史の中に消えてしまったわけではありません。

さて、話を地震に戻して。
天武時代の地震の多さは、実は白鳳地震の予兆であったとも見ることができます。
もし天武時代が地震の活動期ではなく、白鳳地震が起こらなければ、もう少し藤原京の時代が続いていたかもしれませんね。

持統天皇といえば、天上の虹!

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